パルシステム神奈川のイベントレポートをご案内します。

  • 平和 国際活動

「ピースアクションinオキナワ~第41回沖縄戦跡・基地めぐり」に参加しました

3月27日~29日の3日間、沖縄戦の歴史と米軍専用施設の約70%が集中する沖縄の現状、抱えている諸問題、これからの平和をめぐる課題について考えるツアーに、パルシステム神奈川の理事・職員が参加しました。

テーマは「沖縄から学ぶ 過去・現在・未来」

日本生活協同組合連合会と沖縄県生活協同組合連合会が主催するピースアクションinオキナワは、5年ぶりに組合員参加を含めた全国集会を企画し、参加者総数182名での実施となりました。

3月27日には、講演会が行われました。
■「沖縄戦・在沖米軍基地から平和について考える-フィールドフィールドワークに行く前に考えたいこと-」
琉球大学教育学部副学部長 山口剛史さん講演
当時の米軍の攻撃のすさまじさ、武器などを説明し、「平和のために軍隊は必要ですか?沖縄戦で日本軍は住民を守る盾にはなりませんでした。沖縄の今と過去の経験を知り、参加者が判断してほしい。学びをいっしょに探求し、本人が考えることが重要です」と語りました。

「鉄の暴風」と呼ばれた米軍艦砲射撃の破片

■「那覇市繁多川の住民が見た沖縄戦」
NPO法人1万人井戸端会議理事 波平元維さん講演
波平さんは6歳の時に沖縄戦を経験。同法人代表理事の南さんからのインタビュー形式で波平さんの経験が明かされました。家族と繁多川から本島南部へ避難した時の記憶は壮絶で「日本兵による壕追い出し・食料強奪、別の壕へ移動するため昼も夜もなく歩き、カエル・ネズミ・サトウキビ、虫が食料だった」という過酷な状況を語りました。現在は、沖縄戦の実相を伝えるため小中学校平和学習講演を多数行っているそうです。

3月28日は、フィールドワークに参加しました。
ガイドは名護市教育委員会にて市史編纂を務めていた川満彰さんです。

■辺野古テント村
平成31年辺野古埋め立てについて県民投票が実施、投票総数の71.7%が反対の意思を示しましたが、県民の思いを顧みることなく工事が強行されています。
テントには反対運動に参加している方が静かに座っていました。「陳情規定」を心がけた「耳より手を上げない」「大きな声を出さず、静かに話す」といった落ち着いた姿勢で対応する「非暴力による戦い」を体現していました。
川満さんからは「辺野古埋め立て工事はこれまでも巨額の費用が掛かっています。大浦湾は非常に緩くやわらかい『軟弱地盤』が広く分布しているので、さらなる大規模工事が必要です。1兆円でも足りないのでは、といわれていますが工事費用は日本政府が出しています。これは私たちの税金です」との説明に参加者からは「これは日本全体の問題ですね」との意見が出ていました。

テント村の様子

■瀬嵩の浜(せだけのはま)
瀬嵩の浜から辺野古の海を見渡すことができます。
川満さんは「沖縄防衛局は名護漁協に対し、漁業権を放棄していることから補償を支払っていますが、漁船に抗議船を監視する『警戒船』としての仕事を依頼、日当5万円が支払われています。その関係性から漁協は工事容認派なのです」と話しました。

■チビチリガマ
読谷村にあるこの洞窟(自然壕)に避難していた人々はアメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れて「集団自決」をしました。79年前、肉親の手によって命を絶たれるという非業の最後を遂げた方は83人。ご遺骨が残っているという事から、この壕は現在立ち入りができない場所となっています。

■道の駅かでな
嘉手納基地を一望できる場所です。
川満さんから「米軍は沖縄戦のあいだ、「避難」と称して住民を民間人収容所に強制収容したが、米軍基地建設のために人々を土地から排除するのが目的でした。敗戦から数年後、住民がもとの集落へ戻ると土地はすでに基地になっていました」との話を聞き、嘉手納基地の問題は、現在の「爆音・墜落事故など」だけでなく沖縄戦で生き残った人々から「故郷も奪っていたこと」も含まれると知りました。

戦闘機が訓練をしていた嘉手納基地

■嘉数高台(かかずたかだい)
守備司令部があった首里をめぐって日米で最も激しい戦闘が行われたこの場所は、分厚いコンクリートで固めた攻撃拠点が残っています。穴から機関銃などを出して攻撃したそうです。多くの住民、日本兵が亡くなった場所なので、「嘉数の塔」(亡くなった嘉数住民の慰霊碑)、「京都の塔」(戦死した京都出身者の慰霊碑)など、慰霊碑がいくつも点在する場所です。
川満さんは「青丘之塔(せいきゅうのとう)」について、「これは朝鮮半島出身の韓民族の軍夫の方たちを祭った慰霊碑です。碑には『韓民族出身ノ軍人 軍属三百八十六柱が・・・眠ッテオラレマス』と刻まれていますが、日本名に改名させられてしまった方が多く、正確な人数は確認できないのです。また終戦直後に朝鮮半島へ数千人の方が帰還するため乗船した輸送船は京都府の舞鶴湾内で爆発、沈没しました。原因はいまだに解明されていません。これからもしっかり考えていかなくてはいけません」と語りました。

  攻撃を受けたため形が崩れていると説明するガイドの川満さん

        青丘之塔

3月29日は、病院壕として使われていたアブチラガマと、平和祈念公園内を見学しました。

■アブチラガマ<糸数壕>
陸軍病院の分室として利用されていた洞窟の中にヘルメットを着用して入りました。洞窟内は縦に長い空間ですが、勾配がきつく非常に足場が悪い場所でした。
川満さんから「破傷風患者など重篤な方は洞窟の奥を病室として隔離し、壕から移動する際は重体の人を置き去りにしたそうです。この壕は軍人だけでなく住民も避難していましたが、自由に外出できないよう軍は監視をしていました。外で住民が米軍に捕まり、日本軍の施設である病院壕のことを話したりできないようにするためです」と説明されました。

■平和の礎・沖縄県平和祈念資料館
平和祈念公園内にある「平和の礎(いしじ)」は、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑です。
川満さんは「現在の刻銘者総数は約24万人です。〇〇(姓)の「第〇子」と書かれているのは、お子さんのお名前が確認できなくても生きた証として大切に刻銘しているのです」と話しました。

平和祈念資料館内では、「沖縄戦に至るまでの沖縄の歴史や戦争がなぜ起こったのか」「沖縄戦の実相」「住民が受けた惨劇」をまとめた展示を見学、住民の体験証言集を閲覧しました。また米軍占領下のくらしや、土地闘争や復帰運動への様子も展示されていました。

   

本スタディツアーの参加者は「沖縄戦で日本軍は住民を守らなかった」という史実と「基地問題」について深く理解したことで、平和の尊さと私たちに必要な国の防衛について、日本人一人ひとりが当事者意識をもって考えていくことの大切さを感じました。